スピーカーイベント浜田敬子氏

スピーカーイベント浜田敬子氏

8月のProfessional Womanスピーカーイベント(8月20日開催)はビジネスニュースサイト・BUSINESS INSIDER JAPANの統括編集長、浜田敬子さんにご登壇いただきました。新卒で朝日新聞社に入社し、AERAで女性初の編集長として活躍された浜田さんは、1人のお子様の母でもあります。
最前線での社会問題の取材経験、そしてご自身のキャリア経験、両方の側面から語られた女性の生き方、キャリアビジョンへのメッセージは、深く、強く、私たちを励ましてくれました。
 
「仕事と子育ての両立が不安なのは、全部自分でしようと思うからです。
    後輩世代には、絶対、全部自分でしようとしないほうがいいよと言いたいです。」

「若いときは、消去法で人生を選ばないほうがいい。いくらでも途中でシフトチェンジができます。やりたいと思ったら、それが一番大事です。」
 
そして、長年、社会問題に向き合うメディアの第一線で、様々な人や現場へのインタビューを重ねてこられた浜田さんは、時代の証言者のようでもありました。ほんの10年程前と、現在でも、私たちを取り巻く環境は大きく変わっていることに、改めて気づかされました。

今までとこれからは、違う。私たちが踏み出す一歩が、きっと、これからの時代を作るのだと思います。そんなたくさんの気づきと、勇気をくれた浜田さんのトークセッションの模様をお届けします。

就職活動中はどのようなことを考えていましたか?
ずっと記者になりたいと思っていました。かなりOBOG訪問をしましたが、どこの企業も女性がたくさんいる状況ではありませんでした。
私の周りも、サークルの12人の同級生のうち、仕事を続けているのは2人だけ。寿退社と、夫の転勤について動くうちに自分のキャリアを継続できなかった人がたくさんいます。
 
■「一般職」や「地域総合職」について、どうお考えですか?
Business Insider Japanでは「高学歴女子がなぜ今あえて一般職を選ぶのか」という記事を掲載しましたが、「長く働き続けたいから、あえて一般職を選ぶ」という話を聞いて、総合職が今の若い女性にとって、まだまだ働きにくいものなのだと改めて感じました。
どんな働き方をしたいかは、個人の自由だと思います。ただ、あえて言いたいのは、一般職という仕事がいつまであるかを考えたほうがよいということです。

  • AIが進化すると、今の一般職の仕事自体がなくなるリスクがあります。
  • ルーティンワークをずっとしていると、人間のモチベーションは保てません。少しずつ高い目標を与えられることで、モチベーションを保てるものです。
  • 地域限定職や一般職に対して、現状では社内で待遇差別があります。

本来は、一般職という選択もあってよいものですが、問題なのは、一般職についているのが、女子ばかりであることです。もし「一般職」や「地域総合職」という職種を残すのであれば、男性も女性も同じように選べる職種になればよいと思います。

■女性記者として辛かったことはありますか?
たくさんありました。今は改善されているかもしれませんが、当時の新聞社は体育会系で軍隊のようでした。入社後、1年生は何でもやらなければならなかったので、寝る時間も十分になく、体力的にしんどかったです。
そして一番しんどかったのは、自分の仕事がどのポジションにあって、どう全体に貢献しているのかが分からなかったことです。1年目は何度もやめようと思い、11月には腎盂炎にもなりました。でも、当時のデスクに「一つの仕事は、3年は我慢してやってみないと、おもしろさがわからない」と言われて、なんとか続けました。
2年目に自分が出した連載企画が通って、群馬県版のトップニュースを飾ることが何回かあるうちに、徐々に「ちょっとやってみようかな」という気持ちになってきました。
 
■記者は体力のいるお仕事だと思いますが、体力面では男性に勝てないとしたら、女性ならではの強みは何だと思いますか?
記者時代は、体力面で厳しいと思うことの方が多かったです。でも、AERAに行ってからは、全く男女差を感じなくなりました。編集長になって編集部員を見ていても、女性の方が優秀で、ワーキングマザーは時間が少ない中でもパフォーマンスが高かったです。
それは、考えるからだと思います。時間がない、体力が追いつかないとなると、考えます。言われたことだけをこなさず、自分からアイデアをどんどん出すようになります。
また、一般論としてですが、女性の方が、コミュニケーション力が高いと思います。マネジメントをやってもらっても、落ち込んでいる部下がいたら、ランチに誘って聞いてみる等、部下とコミュニケーションを取るのが得意な気がします。今の時代に合ったマネジメントは、女性の方ができるんじゃないかと思います。
 
一方で、体力勝負の下積み時代は大変なことが多かったです。当時、事件・事故の取材で、前線に行かなければなりませんでしたが、阪神淡路大震災の時の取材は、「危ない」ということで私は行かせてもらえませんでした。支局で雑魚寝となると、女性が一人行くと周りが気を遣うから、ということも言われました。それでも、3.11は女性が現場の取材に行っていたので、時代が徐々に変わってきていると思います。
2003年のイラク戦争のときは、どうしても現地に取材に行きたいと言って行かせてもらいました。当時アンマンに赴任していた高校の先輩を辿り、女性の通訳と運転手を紹介してもらいましたが、女性が1人で取材に来るということで随分驚かれました。
一方、その頃、アメリカやヨーロッパは、従軍取材にまですでに女性が入っていました。当時日本では、まだまだ女性に過剰な配慮がされていると感じました。
 
■女性の働き方・ワークワイフバランスで、一番問題意識を持ったのは、どのようなことでしたか?
女性が働き続けるのに難しい要因は、外部的要因と内部的要因があります。
女性が出産後、復職して働いていくための、大きなハードルの一つは、長時間労働問題だと感じてきました。2000年代初めから、AERAでは、長時間労働問題を繰り返し指摘してきましたが、ようやく時代が追い付いてきたと感じます。
電通の悲しい事件や、日本の競争力が落ちたことで、ようやく、「長時間労働じゃだめだ、生産力を上げないといけない」ということが、コンセンサスとして広がってきました。このままではいけないという意識は徐々に共有されつつあると思います。
2000代に入ると女性の採用が増え、第1女性登用ブームがありました。均等法世代の女性が少しずつ管理職になり始めた2003年、200社にアンケートを取った記事では、「女性に優しいよりも、やりがいを」というタイトルを付けました。
当時企業は徐々に仕事と家庭の両立支援制度を充実させていましたが、女性が望んでいるのは、制度的な優しさだけではありません。やったことに対して会社に評価してほしいのです。育休から復職後に時短制度を利用すると、マミートラックにのって、B級社員というレッテルを貼られて昇進できないというようなことが、2000年代の多くの日本企業で起きていました。
その時代から、女性管理職は「同じ会社に同じ立場の人がいない」「男性の部下を指摘するのが難しい」といった悩みを持っていました。
2007~2008年女性管理職のシリーズでは、「男性部下との付き合い方」「孤独感」「ライフとの両立が難しい」「課長になったがその先のキャリアがわからない」等がテーマになりました。
リーマンショック前、日本企業の経営陣に女性が少なすぎるという話が世界的にもネガティブに受け止められ始めていました。大企業の中には女性役員や管理職を増やそうという動きもありました。当時の人材エージェントに聞くと、中途採用で、女性のマネジメント経験者がひっぱりだこだと言っていました。しかし、リーマンショック後には、その市場がゼロになったと言われました。
つまり、当時の女性登用というのは、景気のよいときに、CSRや企業のブランド向上のためにするもの、という風潮がありました。
しかし2014~2015年頃は、ダイバーシティを進めないと、日本企業の競争力が厳しく、組織が硬直化してイノベーションが生まれないという本質的な理由から、女性の活躍が求められるようになっていると思います。

■AERA女性初の編集長就任を持ちかけられたときはどんな気持ちでしたか?
実は、やっと来た!という気持ちでした。副編集長だった期間が長かったのです。副編集長は、編集業務に集中でき、マネジメントも楽しかったのですが、さすがに同じことを長い間やっていると飽きてきていました。
長く副編集長をやり、編集長代理の時代には雑誌作りの主な部分を担うようになると、なぜ自分が編集長になれないのだろうと思い詰めるようになりました。当時は、女性だから編集長は無理なのかと悩み、辞めようか、転職しようかと考えるようになりました。
周りの友人たちに励まされてなんとか続けられましたが、それがなければやめていたと思います。
 
■女性管理職として困ったことはありましたか?
男性社員とのコミュニケーションです。男性は、女性が部下だとフレンドリーでも、立場が逆になると、そうでなくなることもありました。男性のプライドを大事にするように気を付けました。
また、一時期AERA編集部は、30人中20人が女性、10人がワーキングマザーになりました。その時、会議で男性が1人だけになることもありましたが、男性に発言しなかった理由を尋ねたところ、「あんな女ばっかりのところで発言できませんよ」と言われました。彼の立場は、女性が男性の中で一人の時と同じなんだと気づき、非常に勉強になりました。こちらが気を遣って話を振ってあげればよかったと思います。
出版業界はずっと厳しい状況が続いていました。コスト削減のために人数を減らしても、業務量は減らない中で、ワーキングマザーにも120%力をだしてもらわないと雑誌は作れない。
そこで、彼女たちに「とにかく自分が一番やりやすいように働いて。締め切りまでにいい原稿をあげてくれさえすればそれでいいから。家で原稿を書いてもいい。」そうすることで、なんとかやってこられました。
 
■浜田さんはお子様がお一人いらっしゃるとのことですが、子育てと仕事を両立する中で悩んだことなどがあれば教えて下さい。
両立は、できていません。私たちから上の世代は、シッターを毎日雇うか、親に頼るか、でした。そうしないと仕事を続けられないと思っていました。初めは毎日シッターさんにお願いしていましたが、続かなくなり、山口から親に実家を売って、東京に出てきてもらいました。2,3歳下の後輩も、同じように親を北海道から呼び寄せたりしていました。
氷河期世代の40歳前後の女性は、「私は浜田さんのようにはできない。親もまだ仕事があるし介護もしている。地方の親の生活は簡単に変えられない。それでもちゃんと結果を出したい」ということで、苦肉の策で先ほどのような働き方にしました。
 
■浜田さんは、仕事が好きでキャリアを楽しんでいらっしゃる印象ですが、どうしてそこまで好きな仕事に出会うことが出来、それに没頭し続けることが出来てきたのだと思いますか?
たまたますごく好きな、やりたかった仕事に就けたのが大きかったです。
ニュースの現場に行きたいと中学生くらいから思っていて、今でもこの仕事には全然飽きていません。ニュースの現場に行って、ニュースを伝えるという仕事は、一生やるんだろうなと思っています。
自分がこの仕事が好き、やって達成感があるという仕事につけたら、続けるモチベーションになると思います。私は、子育ては得意でなく、育休中には産後ノイローゼっぽくなりました。仕事よりも一対一で子育てする方がつらかったです。保育園に預けたときは、保育士さんはなんて素晴らしい存在なんだと思いました。
育休中にも、プロフェッショナルやカンブリア宮殿を見て、復帰したらめっちゃ働こうと思っていました。
子供とあまり一緒にいられないことに罪悪感を感じる人もいますが、私は子育てと仕事の葛藤はありませんでした。むしろ、私は母性が足りないんじゃないかとさえ思っていました。夫が子供好きだったので、よかったです。
後輩世代には、絶対、全部自分でしようとしないほうがいいよと言いたいです。みんなすごく完璧主義です。氷河期世代は、堅実なので家事や育児にお金を使いたがりませんが、全部自分でやろうとして、身体を壊します。掃除はシルバー人材センターに頼む等、やってもらったらいいんです。あなたが休む時間を買うのはもったいなくない。なんでもかんでも自分でしようとすると、絶対に、絶対に、つぶれてしまいます。
若い世代も両立を不安がるのは、全部自分でしなければならないと思うからです。この時期貯金ができなくても、自分が仕事を続け、子供といる時間を確保するためにお金を使うことは、決してもったいなくなくて、自分への投資やごほうびだと思ったほうがいいと思います。
 
■この会場には年齢層は学生から社会人まで、男女問わず幅広いオーディエンスがいますが、皆さんへのメッセージをお願いします。
若いときは、消去法で人生を選ばないほうがいいです。「この会社だったら仕事を続けられるから」とあまり興味のない分野の仕事に就くと、実際続けられるでしょうか?いくらでも途中でシフトチェンジができます。やりたいと思ったら、それが一番大事です。やりたい仕事の会社に入って、激務だったら、その後変えたらいい。他のことは、他の解決策があります。
自分が何をやりたいか。何に喜びややりがいを感じるかを考えたほうがいいと思います。

浜田さんを囲んで集合写真

(文 / Yukako Yamachika)

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